「読んだ本について語りたい!」という衝動(義務感)と対極にあるようなこのタイトルで表紙買い。読んでない本について語るための本が、なぜ出版されたのか?
フランス論壇の鬼才によるベストセラー
<読まずにコメントする>という経験について語ることは、たしかに一定の勇気を要することである。本を読まないことを称揚するテクストがほとんど見当たらないのは理由のないことではない。
著者は大学教授として、文学を教え、自らも文学批評や書評、論文などを執筆する”フランス論壇の鬼才”だそうで、本書は世界的なベストセラー。みんな、気になるんですね、このテーマ。
仏文学専攻でありながら、全く仏文学の世界とは相容れなかった身としては、フランスの方々の本を読むたびに、「文章は全てを伝えることができる、理解できないやつは置いていく」的な語り口に、大学時代を思い出しノスタルジーに浸ってしまいます、、、。煙に巻かれながら読み進めた本について、こうやって何かを書こうとする行為は、まさに本書で描かれる「読んでいない本について語る」ことそのものです。
目次で伝わる不真面目さに期待が膨らみます
目次で、この本の真面目なんだか、おちょくってるんだか・・・な感じが伝わるだろうか。
1章 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって・・・)
・ぜんぜん読んだことのない本
・ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
・人から聞いたことがある本
・読んだことはあるが忘れてしまった本
2章 どんな状況でコメントするのか
・大勢の人の前で
・教師の面前で
といった調子(笑)。どの章も古今東西の様々な文学作品をテキストとして、いかにも大学教授らしい熱弁が振るわれています。
例えば「ぜんぜん読んだことのない本」であれば
どれほど熱心な読者であっても、存在するすべての書物のほんの一部しか読むことはできない。したがって、話すことも書くことも一切しないと言うのでない限り、常に読んだことのない本について肩らされる可能性がある。
この立場を極限まで推し進めると、本はいっさい読まないが、それでいて本を知らないわけでも、本について語らないわけでもないと言う、完全非読派の究極例が得られる。それがムジールの小説「特性のない男」に出てくる図書館司書のケースである。
ムージル(全く知らない)、ポール・ヴァレリー(聞いたことある)、アナトール・フランス(歴史で習った?)、バルザック(勉強したわ〜)といったフランス、ヨーロッパの文学中心の論評のなかで、夏目漱石の「吾輩は猫である」も題材とされていました。
痛快な最終章「自分自身について語る」
最終章では、オスカー・ワイルドの文章から、読書や批評についての考察を紹介しています。
文学や芸術の役目は、批評の対象となることではなく、批評家に書くことを促すことである。というのも、批評の唯一にして真なる対象は、作品ではなく、自分自身なのである。
・・・
極端にいえば、批評は、作品ともはや何の関係ももたないとき、理想的な形式にたどり着く。
・・・
自分自身について語ること–これがワイルドが見るところの批評活動の究極の狙いである。
書物を過度に神聖視することなく、読者として文学と主観性を持って対話し、自分自身に耳を傾ける。批評とは自ら創造することが大切で、本を読んだかどうかはもはや関係がない。
読んでいない本について語ることはまぎれもない創造活動なのである
だから、罪悪感を持つことなく、「教養」への恐怖心に打ち克ち、批評し、語り想像し続けよう、というメッセージで本書は締めくくられている。本著が世界的ベストセラーになった理由は、この「教養」への強迫観念を抱く全ての人を救済するメッセージ性にあるのでしょう。
翻訳者の後書きが、本著を読み解くのに非常に参考になる客観的な情報が満載です。親切な解説本当にありがとうございます! 後書き読むと著者が本著で試みていることがうっすら理解できたような気になり、もう一度読み返したくなります。