上巻「シリコンバレー修行編」(過去投稿にリンク)に続き、フェイスブック入社後からの約2年間の回顧録。とても面白い。IPO前後のフェイスブックでの生活、社内の雰囲気や独特な文化などを、実名とジョークをふんだんに交えて暴露。いや、面白い。
下巻のテーマはずばり「フェイスブック社」
個人的には、FB入社までの顛末の「上巻」が、”全く知らない世界!!”で興味深かった感じ。下巻テーマは、”FBという会社”そのもので、そのユニークさはもちろん想像を超えています。「前進あるのみ」の勇壮な文化、広告(マネタイズ)よりもグロース(ユーザー獲得)部門が極端に強い組織、数年前までスタートアップだった超一流IT企業の社員の生活(サンフランシスコの物価高!のリアルも)、、など読みどころは満載。組織というのは、まあ、どこもおかしな癖を抱えてるもので、、、、
もちろん、超有名人マーク・ザッカーバーグやシェリル・サンドバーグなど経営層の特権的なポジション(&社内からどう見えている)のか ザックがどんな人物なのか、シェリルがどんな仕事してるのか、について、著者目線というかなりの偏りはありますが、イキイキと具体的に描かれています。
フェイスブックには、本気で、本当にもう心底から本気で金のためではなく、大人も子どもも地球上のすべての人が青枠に縁どられたフェイスブックのページを見るようになるまではたゆまず進むのだ、と心底本気で思っている人間が大勢いる。これは考えてみると単に欲得で動くよりもよっぽど怖い。欲深い人間は必ずなんらかの値で買い上げられるし、どんな動きをするか予測がつく。でも本気で狂信的な人間はどうだろう?どれだけ金を積んでも落ちないし、狂気の構想のもとで自身も周囲も何をするか分からない。
これが、マーク・エリオット・ザッカーバーグという人物と、彼が作り上げた会社の姿なのだ。
著者に言わせると、ザックの承認を取り付けるための”裁定者”がシェリル、だということらしい。
ザックはマネタイゼーション関連の統括を基本的にシェリルに丸投げしていたので、シェリルはいわばソーシャルメディア界のキリストの代理人、あるいはザック王の総督だった。ザックの代わりにメンバーを取りまとめるのと同時に、ザックの指示をうまく取り付けるよう戦略を練る。これは他の誰も決してかなわない値千金の能力である。
シェリルは四半期ごとに巨大なミーティングを開催した。エンジニアリングチームがセールスのために開発中の素晴らしいツールを披露し、エンジニアリングとオペレーションが一緒になった混合チームがいかにうまく協力して動いているかをアピールするのが趣旨だ。このお祭りでは管理者としての彼女の力量が存分に発揮され、多岐にわたる分隊から集まった面々とのやり取りをシェリルは巧みにさばいた。こちらで誰かがもらした何気ない心の声を拾い上げたと思えば、あちらで長らく休止状態になっていた件を発掘し、 一つひとつすべての声に耳を傾ける一方で特定の声に耳を傾けすぎないように注意し、重要でない件を大げさに言い立てる声が上がれば封じて全体の歩みを止めないようにする。参集した社内の有力者たちとその大きなエゴをどうすれば操れるか、熟知していたのだ。
ネット広告の高度な知識も身に付く、かも。
著者が担当した広告の新プロダクト(フェイスブックエウスチェンジ=FBX)に関わる攻防戦(主に社内、カスタムオーディエンス=CA)について、なんとか読者に理解させようと、複雑なネット広告の仕組みを、なんとか、わかりやすく説明しようとしてるのがありがたい。
CAの場合、名前やメールアドレス、電話番号などの個人を特定できる情報(PII)を広告主がアップロードし、例えば「先月何かを購入した人」のようにターゲット層を自分で指定した。
一方のFBXはいわば人の注意を取引するニューヨーク証券取引で、人間の欲求を1日に何十億回にわたってリアルタイムで金に換える。外の世界とフェイスブックを丸ごとリアルタイムでつなぐパイプを作ることで、あらゆるユーザーを広告ターゲットにできる。二年前にたまたまジェイ・Z を「いいね!」した人から、ついさっきザッポスで三足の靴から一足を選んで購入した人、 マツダの新型ロードスター についての記事を読んだ人、 あるいはイーベイで何か買った人まで、 とにかくあっという間にできてしまうのだ。
著者の知識や文章力に感嘆! かなり複雑な世界をわかりやすく説明しようとしてくれているのに、正直理解しきれない部分も多く、、、、広告だけでなくネット全般の知識は、もっと強化しないといけない、と痛感。
金融、起業家、スタートアップのIPO全てを経験した著者、資本主義への希望と諦念
ザックが目の前のガラスにはめられたボタンを力強く押す。(略)新年を迎えた瞬間みたいに歓声が上がった。(略)ひとつの歴史が作られた! フェイスブック、株式上場!僕たちは今、目の前で見たのだ。友人たちがうらやましがり、将来孫たちは僕らの話を聞いて想像するしかないこの瞬間を。人が自分より大きな存在の一部になることで、根本に抱える実存的不安が一時的に消える場合がある。たいていは例えば集団リンチを加えるような下劣な行動や、戦争の攻撃開始日のように英雄的行為だったりしてIPOのように利益が絡むできごとの場合はまれだ。
IPOセレモニーをニューヨークではない、自社の中庭で執り行ったというフェイスブック。社員はもちろん、世界中が注目したその瞬間、著者もFB中庭でのオープニングベルセレモニーを目撃したそうです。社員誰もが「一生に一度」の体験と、その興奮をこぞってFBに投稿しました(#MLE メジャーライフタイムタイムイベントというのだそう)。
世論や空気を味方につけ、熱狂や歓喜や興奮の瞬間を、戦略的なプロジェクトとして作り出すことは可能です。私も経験がありますが、クライマックスの歓喜の瞬間は本当に興奮するし、”自分より大きな存在の一部になる”とか”実存的不安が解消する”といった大層な表現も、当てはまるほどの圧倒的な一体感を感じました。
しかし、その興奮にさえ、著者らしいシニカルで客観的な視点が加わります。
ポストモダンと言われる前の時代、このような歓喜をもたらすのは、いにしえから続く神々を祀る儀式か、戦いに勝利するか、あるいは歌や踊りや芸術を通じて大切にしている文化を直接体験する、といった形に限られた。それが今は、値段がついたことに、そしてそれによって自分たちの日々の労働が認められたことに、人は狂喜し喜びにひたる。起業家が胸に抱く野望がここにある。いつか、社会が値段をつけるに値すると認めてくれる組織を作りたい、と言うことなのだ。
IPOの価値を認めながらも、著者は、その物語を否定するように、この文章を締めくくります。著者の詩的な感性が光る一文です。
IPOのような悲劇の物語は、真の悲劇に心惹かれるものにとっては、かつて詩人が詩と言う形で言葉につむいだ悲劇や、父が息子に語りついた悲劇にくらべればどうしても色あせて見える。この日、中庭で歓声をあげていた人々がいずれ後持ち場を持った時、いつか暖炉の前かどこかで「ねぇおじいちゃん、フェイスブックの株式公開の日に立ち会うのってどんな感じだった?」とたずねられたりするのだろうか?ノルマンディー上陸作戦や西部開拓を体験した世代が次の世代から聞かれたみたいに?
そうはならないだろう。作られた聖なるミサに立ち会った僕も、一時の興奮はすぐに疲労感と気の抜けた感覚に変わっていた。このときのような華々しい見せ場もう作れないのだとしたら、そんな文化はこの先後どうなるのだろう、と僕は思いをはせた。